王祥の仇

『晋書』王祥伝を見てみると、実は父がいつ死んだのかよく分からない。


「漢末遭亂、扶母攜弟覽避地廬江、隠居三十餘年、不應州郡之命。」とあるので、廬江に流れ着いた時には父はいなかったように思える(そうでない可能性も無くもないが)・・・。



父はどういう理由で亡くなったのだろうか。




また、彼は『晋書』王祥伝では泰始5年(西暦269年)死去とされているが、死ぬ直前に85歳だと言っているので、彼は西暦186年前後の生まれと思われる。



彼が徐州から逃げる契機となる戦乱と言えば、興平元年(西暦194年)頃にあった曹操による徐州殺戮行の可能性が高いだろう。王祥はまだ幼子という段階ではあるが、少なくともあり得ない年代ではない。




この時期までは生きていた王祥の父は、疎開の原因と思われる徐州殺戮以降姿を消し、王祥は仕官適齢期となっても曹操が死ぬまでずっと仕官しない。




・・・王祥の父が死んだのは曹操のせいだったのでは・・・?