回答篇

昨日の記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170811/1502378709)についてだが、思惑通り早速諸賢より回答していただけた。回答いただいた方々には重ねて感謝申し上げる*1



ではさっそく確認しておこうと思う。




有漢日南太守胡著碑。子珍騎都尉尚湖陽長公主、即光武之伯姉也。
(『水経注』比水(芡水))

なるほど、確かに。



この条である芡水は南陽郡の湖陽近辺の川なので、そこに碑を建てられる胡著とは湖陽またはその近辺の出身なのだろう。



そして胡著は胡珍の親なので、日南太守になったというのも前漢末か後漢初の事なのだろう。世祖の父とも同世代だろうと考えると前漢末に太守になっていたと考えても差し支えないかもしれない。



だから世祖の姉との結婚は、「同じ郡出身で県令や太守を経験する高官の子弟同士の結婚」という形だったのだろう*2

*1:https://twitter.com/rubu192rubui/status/895678150801145856

*2:言い換えると、胡珍は湖陽公主が宋弘に断られた後の結婚相手ではなく、最初の結婚相手だっただろう、ということだ。