幻の元号

太元)二年春正月、立故太子(孫)和為南陽王、居長沙、子(孫)奮為齊王、居武昌、子(孫)休為瑯邪王、居虎林。
二月、大赦改元為神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福、表亡去。
夏四月、(孫)權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。秋七月、葬蔣陵。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、太元二年)


へえ、孫権が死ぬ年、元号を「太元」から「神鳳」に変えてたのか。今まで知らなかった。



でも『三国志』中で「神鳳」って元号まるで出てきてないっぽい。幻すぎる。

ひとこと

あくまでも印象だが、孫権の「息子を失った悲しみ」の度合いが孫登より孫慮の時の方が上に思える。あくまで印象。



もちろん孫慮の方が先だったとか年が若かったとかの理由だったのかもしれないが、「本当は後継者にしたかった子」と「本当は後継者から降ろしたかった子」の差だった可能性も、まあ捨てきれないところだろうとは思う。

ひとこと

孫権が臣下に言われても最後まで王には立てなかった孫慮と、皇太子と限りなく同格に近くはしていたが王として分家独立させた孫覇



孫権にとって、どちらがより「本当はコイツを皇太子にしたい」という気持ちが強かったのか・・・。




自分としては、孫慮の方が孫権本人の「皇太子交替したい」という気持ちは強かったんじゃないか、と思っている。