『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その26

その25の続き。


莽乃起眡事、上書言「臣以元壽二年六月戊午倉卒之夜、以新都侯引入未央宮。庚申拜為大司馬、充三公位。元始元年正月丙辰拜為太傅、賜號安漢公、備四輔官。今年四月甲子復拜為宰衡、位上公。臣莽伏自惟、爵為新都侯、號為安漢公、官為宰衡・太傅・大司馬、爵貴號尊官重、一身蒙大寵者五、誠非鄙臣所能堪。據元始三年、天下歳已復、官屬宜皆置。穀梁傳曰『天子之宰、通于四海。』臣愚以為宰衡官以正百僚平海内為職、而無印信、名實不副。臣莽無兼官之材、今聖朝既過誤而用之、臣請御史刻宰衡印章曰『宰衡太傅大司馬印』、成、授臣莽、上太傅與大司馬之印。」
太后詔曰「可。韍如相國、朕親臨授焉。」
莽乃復以所益納徴錢千萬遺與長樂長御奉共養者。
太保舜奏言「天下聞公不受千乘之土、辭萬金之幣、散財施予千萬數、莫不郷化。蜀郡男子路建等輟訟慙怍而退、雖文王卻虞芮何以加!宜報告天下。」奏可。
宰衡出、從大車前後各十乗、直事尚書郎・侍御史・謁者・中黄門・期門・羽林。宰衡常持節、所止、謁者代持之。宰衡掾史秩六百石、三公稱「敢言之」。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽は政務に復帰して上奏した。「私は元寿二年六月戊午の夜ににわかに新都侯の身分で未央宮へ召喚され、庚申に大司馬となって三公となりました。元始元年正月丙辰には太傅に任命され、安漢公の称号を賜り、四輔となりました。今年(元始四年)四月甲子にはまた宰衡となり、上公の地位となりました。私は爵位は新都侯、称号は安漢公、官は宰衡と太傅と大司馬であり、爵位も官位も極めて尊く、私一人に五つもの寵遇を受けており、まことに私のごとき者に堪えられるものではありません。元始三年は天下の収穫は既に回復しているので、所属の官員を置くべきです。『穀梁伝』に「天下を治める大臣は四海すべてに通じている」とあります。私が思うに、宰衡の官は百官全てを正しく導き天下太平をもたらすことを職務としており、それなのに公印が無いのでは名実は備わりません。私は兼任できるような能力の者ではありませんが、朝廷が誤って私を兼任させましたが、願わくは御史に宰衡の印章として「宰衡太傅大司馬印」という文字を刻印させ、完成したら私めに授けていただき、太傅の印および大司馬の印と交換したいと思います。」



元后は「裁可する。付属の日もは相国のものと同様とせよ。朕自らが授与する」と詔を下した。



また王莽は増額された結納金のうち一千万銭を元后の側仕えの者たちに贈った。



太保王舜は上奏した。「天下の人々は安漢公が大国の領土を受けず、多額の結納金を取らず、数えきれないほど施しをしているのを聞いて、良い影響を受けない者はおりません。蜀郡の男子路建らは安漢公のことを聞いて恥じ入って訴訟を取り下げました。周の文王のところへ行った虞・芮二国が自ら退いたことといえども、安漢公のこの話以上でありましょうや。天下にこのことを広く知らせるべきです」そのことは裁可された。



宰衡が外出するときは大きな馬車を前後各十台付き従い、尚書郎・侍御史・謁者・中黄門・期門・羽林が控えることとされた。宰衡は常に節を持ち、どこかに留まる時は謁者が代わりに持つこととされた。宰衡の掾史は官秩六百石とされ、三公が宰衡に申し上げる時は「敢えてこれを言う」から始めることとされた。


ここではっきりするが、王莽は「大司馬」の職を持ったまま「太傅」を兼任し、更に「宰衡」にもなった、ということである。



大司馬はもしかしたら王莽自身が軍事面に関与するために必要とされたのかもしれない。



なので、以前出てきた「大司馬護軍」というのは、直接の上司は王莽。あの護軍は上司王莽を間近に見たことを上奏したのであろう。





あと、王莽は結局自分から「属官を付けてくれ、宰衡の印章を作ってくれ」と言っているのも味わい深い。名誉職ではなく、実態を伴う職として任命されたのであれば、属官と印章がなければ仕事が出来ないからだ。