『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その16

その15の続き。


有詔遣大司徒・大司空策告宗廟、雜加卜筮、皆曰「兆遇金水王相、卦遇父母得位、所謂『康強』之占、『逢吉』之符也。」
信郷侯佟上言「春秋、天子將娶於紀、則褒紀子稱侯、安漢公國未稱古制。」
事下有司、皆曰「古者天子封后父百里、尊而不臣、以重宗廟、孝之至也。佟言應禮、可許。請以新野田二萬五千六百頃益封莽、滿百里。」
莽謝曰「臣莽子女誠不足以配至尊、復聽衆議益封臣莽。伏自惟念、得託肺腑、獲爵土、如使子女誠能奉稱聖徳、臣莽國邑足以共朝貢、不須復加益地之寵。願歸所益。」太后許之。
有司奏「故事、聘皇后黄金二萬斤、為錢二萬萬。」莽深辭讓、受四千萬、而以其三千三百萬予十一媵家。
羣臣復言「今皇后受聘、踰羣妾亡幾。」有詔、復益二千三百萬、合為三千萬。莽復以其千萬分予九族貧者。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

大司徒・大司空に命じて宗廟に皇后のことを告げさせ、また卜占や筮竹により占わせたところ、みな「卜占では「金水王」の相が出て、筮竹では「父母が位を得る」という結果が出ました。いわゆる「身体が安らかで丈夫なので、子孫にとって吉」という兆しです」と報告した。



信郷侯劉佟*1は「『春秋』において、天子が紀国の娘を娶ろうとする際、子爵であった紀の君主を侯と格上げしておりました。安漢公はそういった過去の事例に合致していません」と上奏した。



その件は担当官署に回され、みな「古の時代、天子は后の父を百里四方の国の諸侯とし、尊んで臣下扱いしませんでした。天子の宗廟を重んじ、孝行の極みであるからです。劉佟の発言は礼にかなっており、許可すべきです。新野県の二万五千六百頃の農地を王莽の領土に加増し、百里四方という前例に合わせるべきです」と答えた。



王莽は「私の娘は本当に皇帝の正妻になるにはふさわしくありませんが、また人々の意見を聞いて私の領土を加増されました。私が思うには、すでに天子の姻族となり、領土を獲得しました。もしも私の娘が皇帝の徳に釣り合うのであるなら、私の領土は既に毎年の貢物を供給できるだけのものではあるので、加増の必要はありません。返上させていただきたく思います」と辞退し、元后はそれを許可した。



担当者は「前例では、皇后の結納金は黄金二万斤、銭二億枚相当となっています」と言ったが、王莽は辞退して銭四千万枚のみ受け取り、そのうち三千三百万枚は十一家の付き添いの女性たちに与えた。



担当者は「皇后の結納金が付き添いの女性たちとほとんど差がありません」と言って銭二千三百万枚を追加して皇后の結納金は銭三千万枚としたが、王莽はまたそのうち一千万枚を遠い親戚に至るまでの貧しい者へ与えた。




もはやおなじみ王莽の辞退祭り。




今回は2億銭の結納を4,000万銭だけ受け取った上、11組の付き添いへ300万ずつ与えたため、4,000−300×11=700ということで王莽家の取り分は700万しか残らなかった。




正直王莽くらいになれば金の問題ではないだろうから、これで人々の歓心を買えるなら安いものという感覚なのだろう。




*1:漢書』王子侯表下によると「新郷侯」となっている。なお、この新郷侯佟は王莽が新王朝を建てると王氏の姓を賜ったという。つまり格下げを余儀なくされる劉氏ではなく一門扱いしてやる、ということだ。