ふとした疑問

典略曰、初(馬)超之入蜀、其庶妻董及子秋留依張魯。魯敗、曹公得之、以董賜閻圃、以秋付魯、魯自手殺之。
(『三国志』巻三十六、馬超伝注引『典略』)

ふとした疑問なのだが、張魯の元にいたという馬超の子馬秋は、張魯の降伏後になぜ張魯に委ねられ、張魯はなぜ殺すことにしたんだろうか?



この書き方だと、法に則って処刑したというわけではなく、張魯が私的に殺したように感じる。どういうことなのだろう?