張裕の成績表

先主欲與曹公爭漢中、問(周)羣、羣對曰「當得其地、不得其民也。若出偏軍、必不利、當戒慎之!」
時州後部司馬蜀郡張裕亦曉占候、而天才過羣、諫先主曰「不可爭漢中、軍必不利。」
先主竟不用裕言、果得地而不得民也。遣將軍呉蘭雷銅等入武都、皆沒不還、悉如羣言。於是舉羣茂才。
(『三国志』巻四十二、周羣伝)


張裕は漢中を攻める劉備に対し、「勝てないので漢中を攻めてはいけない」と諫言したが、ご存じの通り劉備は漢中を占領した(曹操強制移住のため民はいなかったが)。


張裕は予知を外したことになる。


(張)裕又私語人曰「歳在庚子、天下當易代、劉氏祚盡矣。主公得益州、九年之後、寅卯之間當失之。」人密白其言。
(『三国志』巻四十二、周羣伝)


張裕は「庚子の年に天下は代替わりし劉氏の天命は尽きる」と予言した。



確かに曹丕の簒奪は庚子の年であるが、ただ彼が劉備に仕えていることを考えると、素直に当たったと言うこともできないだろう。彼が曹操の元に出奔でもしていたのなら完全正解なのだが、劉備の元にあっては「劉備が劉氏の天命を継いだ」のだから、張裕の予言は不正解である。



更に「劉備益州を得て9年、寅と卯の年の頃に失うだろう」とも予言した。



劉備益州を攻め落とされはしなかったが、益州を得てから9年ほど経た頃に死去しており、この年は確かに「壬寅」の章武2年から「癸卯」の章武3年の頃。劉備が命とともに益州を失ったというのは確かに当たっている。


益州從事張裕善相、(鄧)芝往從之、裕謂芝曰「君年過七十、位至大將軍、封侯。」
(『三国志』巻四十五、鄧芝伝)

張裕は若き日の鄧芝に「君は七十歳過ぎて大将軍の地位となり列侯となる」と言った。



鄧芝は純粋な大将軍ではないがほぼ同格と言える車騎将軍となり、当然列侯にもなった。


まあ控え目に言っても75%は当てたと言えるだろう。


又曉相術、毎舉鏡視面、自知刑死、未嘗不撲之於地也。
(『三国志』巻四十二、周羣伝)


張裕は鏡に映った自分の人相を見て、自分が処刑される相だとわかってしまい、鏡を地面に投げうったのだという。



まあこれは完璧に当たってはいる。予知は出来ても回避できないというのでは辛すぎる話である。





こうして見ると、張裕はまあまあ予知を成功させてはいるが、漢中戦についての誤りが大きいのと、劉氏の天命についての話が微妙なので、何となく全体的に二流予言者という感じになってしまっているようだ。



予知能力でも自分の舌禍による処刑を避けられなかったというのも少々残念ポイントと言える。




当たらぬ予言者とまで言っては言い過ぎだろうが、これでは当代一流みたいな扱いにはならないな、という感じである。