封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。
(『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月)
晋の陳留王国はあの魏帝の血統の封建された地のはずだが、少なくとも魏帝曹奐が退位した時には「邑万戸」とされている一方で、『晋書』地理志では「戸三万」となっている。
本当は最初から3万戸だったのか、『晋書』地理志が誤っているのか、当初は1万戸だったけど最終的には3万戸になったのか。
上記地理志を見る限り、陳留国は10県を抱えていたとされているので、1県(山陽県)だけが領土とされていたはずの山陽公(献帝劉協とその子孫)より領土が多かったことになりそうではある。