二国時代

西伯蓋即位五十年。其囚羑里、蓋益易之八卦為六十四卦。
詩人道西伯蓋受命之年稱王而斷虞芮之訟。
後十年而崩、謚為文王。改法度、制正朔矣。追尊古公為太王、公季為王季。蓋王瑞自太王興。
【注】
正義、二國相讓後、諸侯歸西伯者四十餘國、咸尊西伯為王。蓋此年受命之年稱王也。帝王世紀云「文王即位四十二年、歳在鶉火、文王更為受命之元年、始稱王矣。」又毛詩疏云「文王九十七而終、終時受命九年、則受命之元年年八十九也。」
(『史記』巻四、周本紀)

史記』周本紀は、周の文王は殷王が健在だった時代に受命し王を称したとしている。



この当時の王というと殷王しかなかったはずだから、いわば王=天子が殷と周の2人生まれたことになる。




周の文王は、天子になるべき存在になったのだと自ら認めて天子の称号を名乗り始めた人物だと見ることもできるのかもしれない。



また、三国時代のように複数の天子がいるという状態が継続することも、古の時代に既に経験済みだったということになる。