大河郡

濟東王彭離立二十九年。彭離驕悍、昬莫私與其奴亡命少年數十人行剽、殺人取財物以為好。所殺發覺者百餘人、國皆知之、莫敢夜行。所殺者子上書告言、有司請誅、武帝弗忍、廢為庶人、徙上庸、國除、為大河郡
(『漢書』巻四十七、文三王伝)

東平國。
故梁國、景帝中六年別為濟東國、武帝元鼎元年為大河郡、宣帝甘露二年為東平國。莽曰有鹽。屬兗州
(『漢書』巻二十八下、地理志下、東平国)


前漢梁王国の一部は分割されて済東王国となり、この国が取り潰しになると「大河郡」となった。



この大河郡は後に東平王国となったため、大河郡の名は武帝から宣帝にかけての一時期にしか現れない(そこまで短期間でもないが)。




その後の王朝で復活した形跡はなく、けっこうレアな郡名と言えるだろう。