呉班の前半生

(呉)子遠名壹、陳留人也。隨劉焉入蜀。劉璋時、為中郎將、將兵拒先主於涪、詣降。先主定益州、以壹為護軍討逆將軍、納壹妹為夫人。章武元年、為關中都督。建興八年、與魏延入南安界、破魏將費瑤、徙亭侯、進封高陽郷侯、遷左將軍。十二年、丞相(諸葛)亮卒、以壹督漢中、車騎將軍、假節、領雍州刺史、進封濟陽侯。十五年卒。失其行事、故不為傳。
壹族弟班、字元雄、大將軍何進官屬呉匡之子也。以豪俠稱、官位常與壹相亞。先主時、為領軍。後主世、稍遷至驃騎將軍、假節、封緜竹侯。
(『三国志』巻四十五、楊戲伝、季漢輔臣贊)

蜀漢の呉壹と呉班は同族であったという。



呉壹は劉焉に従って蜀に入ったというから、結構な古株であり、妹は劉焉の子の妻になっている。

先主穆皇后、陳留人也。兄呉壹。少孤、壹父素與劉焉有舊、是以舉家隨焉入蜀。
(『三国志』巻三十四、先主穆皇后伝)

さて、呉壹兄妹は父を早くに失ったことで劉焉について行ったのだというが、呉匡という父が劉焉蜀入り時点で健在だったはずの呉班がこの中に入っているものだろうか?


疎開という可能性はもちろん否定しないが、この時点では呉班は呉壹とは行動を共にしていなかったのではないだろうか?




そうなると、呉班が蜀に入った時期はいまいちよく分からないという事になる。



呉班については劉焉・劉璋の元での官職が記されていないので、「劉備に従って蜀に入った」可能性も否定できないのではないか。



もちろん、父呉匡を失って蜀へ向かったのかもしれない。やはり最初から劉焉に付いていた可能性も否定はしきれない。



だが、少なくとも上記『季漢輔臣贊』の記事では、呉班がいつ劉備の元に付いたのか、いつ蜀に入ったのか、断言できる要素がないように思う。