南越の下地

(始皇)三十三年、發諸嘗逋亡人・贅壻・賈人略取陸梁地、為桂林・象郡・南海、以適遣戍。西北斥逐匈奴。自榆中並河以東、屬之陰山、以為四十四縣、城河上為塞。又使蒙恬渡河取高闕・陽山・北假中、築亭障以逐戎人。徙謫、實之初縣。禁不得祠。明星出西方。
三十四年、適治獄吏不直者、築長城及南越地。
(『史記』巻六、秦始皇本紀)


南越王趙佗らが陣取った南海郡・象郡・桂林郡は、秦が郡としたのは末期の始皇33年の事なので、秦が支配を始めて数年にして独立して南越王が立ったことになるのか。



しかも、どうやら兵士や住民は犯罪者をかき集めていたように思われる。




独立の気風というか反抗的な傾向は、こういった住民たちの根無し草的な出自に由来する部分もあったりするのだろうか。


強さを示さないと百越に飲み込まれるというのもあるかもしれない。