孫氏から丁氏へ

江表傳曰、曹休出洞口、呂範率軍禦之。時(孫)匡為定武中郎將、違範令放火、燒損茅芒、以乏軍用、範即啟送匡還呉。(孫)權別其族為丁氏、禁固終身。
臣松之案本傳曰「匡未試用卒、時年二十餘。」而江表傳云呂範在洞口、匡為定武中郎將。既為定武、非為未試用。且孫堅以初平二年卒、洞口之役在黄初三年、堅卒至此合三十一年、匡時若尚在、本傳不得云卒時年二十餘也。此蓋權別生弟朗、江表傳誤以為匡也。朗之名位見三朝録及虞喜志林也。
(『三国志』巻五十一、孫匡伝注)

呉の孫権の弟孫匡は魏との闘いで派手にしくじり、孫権は彼を「丁氏」として官に就けなかったのだとか。



裴松之は本伝で早死にしたとされる孫匡ではなく孫堅庶子孫朗の事ではないかと言っているが、どちらにしても、なぜ彼は「丁氏」になったのだろうか、という点が気になって仕方ない。




この当時、姓を変更する事例の多くが、「母の実家などを継ぐ養子になる」であるように感じる。


孫権に近い立場では孫河や朱然がそうであったらしい。



ということは、この時に丁氏に改姓させられた者の母が丁氏だったのではなかろうか。



しかし、孫匡孫権と同じ呉氏が母であったとされている。



とすれば、この話が成立しうるのも孫朗の場合だけということか。



じゃあ、やはり曹休との戦いでしくじったのは孫朗なのだろうか?