楊偉の出世

文章敍録曰、(杜)摯字徳魯。初上笳賦、署司徒軍謀吏。後舉孝廉、除郎中、轉補校書。摯與毌丘儉郷里相親、故為詩與儉、求仙人藥一丸、欲以感切儉求助也。其詩曰・・・(中略)・・・儉答曰「鳳鳥翔京邑、哀鳴有所思。才為聖世出、徳音何不怡!八子未遭遇、今者遭明時。胡康出壟畝、楊偉無根基、飛騰沖雲天、奮迅協光熙。駿驥骨法異、伯樂觀知之、但當養羽翮、鴻舉必有期。體無纖微疾、安用問良醫?聯翩輕栖集、還為燕雀嗤。韓衆藥雖良、或更不能治。悠悠千里情、薄言答嘉詩。信心感諸中、中實不在辭。」摯竟不得遷、卒於祕書。
(『三国志』巻二十一、劉劭伝注引『文章叙録』)

毋丘倹の言うところでは、「楊偉は太い実家の無い家の出であったが世に出た」という感じであったらしい。



この楊偉が景初暦の楊偉と同一人物かどうか分からないが、太い実家の無い家で尚書郎になったのだとしたら、このような表現になってもおかしくはないかもしれない。




昨日の記事で紹介した大将軍(曹爽)参軍楊偉、晋の征南将軍軍師楊偉も同一人物だとしたら、バックの無い中で才能を以て尚書郎になり、新たな暦の制定という大事業の中心人物になったのにもかかわらず、それ以降はそこまで出世しているとは言えないところにイヤなリアリティがある。