処分された人、処分されない人

呉録曰、’(隠)蕃有口才、魏明帝使詐叛如呉、令求作廷尉職、重案大臣以離閒之。既為廷尉監、衆人以(朱)據、(赫)普與蕃親善、常車馬雲集、賓客盈堂。及至事覺、蕃亡走、捕得、考問黨與、蕃無所言。呉主使將入、謂曰「何乃以肌肉為人受毒乎?」蕃曰「孫君、丈夫圖事、豈有無伴!烈士死、不足相牽耳。」遂閉口而死。
呉歴曰、(孫)權問普「卿前盛稱蕃、又為之怨望朝廷、使蕃反叛、皆卿之由。」
(『三国志』巻六十二、胡綜伝注)

呉の孫権の時、魏から逃げてきた隠蕃なる者は実際には烈祖様の「埋伏の毒」であったという。



だが隠蕃の事を当時の左将軍朱拠や廷尉郝普が「王佐の才がある」などと褒め称えたために隠蕃は人気を博し、反乱を企んで発覚し捕らえられた。



この時に廷尉郝普は皇帝孫権から鬼詰されて自殺する事となった。




まあ、隠蕃は廷尉監だったそうなので、称賛していた上に直接の上司であった郝普が詰められるのは当然と言えば当然だろう。




しかし、隠蕃を称賛したというもう一人朱拠は、どうもこの時に特別何か処罰されたように思えない。




隠蕃が当時の呉の人々の間で人気者になったのは、元劉備旗下だった郝普の影響力というよりも、呉郡の人で左将軍で孫権の娘婿であった朱拠の影響力の方がずっと多大だったとしか思えない。



隠蕃の謀反事件について影響が多大だった朱拠が実際ろくに処分されなかったのだとしたら(その後の官位などを考えれば多分そうだろう)、娘婿のやった事なので目を瞑るという情実によるものだったのではないだろうか。



朱拠に及ばないようにするために郝普に全責任を負わせたというのは流石に言い過ぎかもしれんが。