王氏と楊氏、あと司馬氏

王朗字景興、東海郯人也。以通經拝郎中、除菑丘長。師太尉楊賜、賜薨、棄官行服。
・・・(中略)・・・
黄初中、鵜鶘集靈芝池、詔公卿舉獨行君子。朗薦光祿大夫楊彪、且稱疾、讓位於彪。帝乃為彪置吏卒、位次三公。
(『三国志』巻十三、王朗伝)

王朗は太尉にまでなった楊賜を学問の師とし、楊賜が死ぬと官を捨てて喪に服した。



そして時代が下ると、楊賜の子楊彪を皇帝(曹丕)に推薦し、自分の位(司空)を彼に譲るとまで言った。





言うまでもなく楊賜・楊彪はいわゆる弘農楊氏であり、弘農楊氏は司馬炎の正妻楊皇后の実家である。






王朗の東海王氏は、泰山羊氏を通して司馬氏と繋がり、弘農楊氏を通して司馬氏と繋がっていた、のかもしれない。


后少聰慧、善書、姿質美麗、閑於女工。有善相者嘗相后、當極貴、文帝聞而為世子聘焉。
(『晋書』巻三十一、后妃伝上、武元楊皇后)


司馬昭が楊皇后の事を知って司馬炎の妻にしたというのも、そもそも弘農楊氏が司馬昭の正妻王氏と関係の深い家であって、その司馬氏・王氏・楊氏の間の日ごろの付き合いの中で耳に入った、といった感じだったのかも。