韓信の子孫、二つの系統

(韓)嫣弟説、以校尉撃匈奴、封龍頟侯。後坐酎金失侯、復以待詔為横海將軍、撃破東越、封按道侯。太初中、為游撃將軍屯五原外列城、還為光祿勳、掘蠱太子宮、為太子所殺。子興嗣、坐巫蠱誅。上曰、「游撃將軍死事、無論坐者。」乃復封興弟增為龍頟侯。
(『漢書』巻三十三、韓王信伝)

かの韓信(韓王信)の子孫である韓説は「龍頟侯」になるがその地位を失い、その後に今度は「按道侯」になった。


韓説が殺されて子の韓興が「按道侯」を継いだが、韓興も誅殺された。



しかし罪を許されて韓説の子、韓興の弟である韓増が「龍頟侯」となった。





・・・韓増が韓説・韓興の後を継いだ立場なら、なんで彼らの最終的な爵位である「按道侯」ではなく、失ったはずの「龍頟侯」になっているんだろうか?



龍頟
元朔五年四月丁未、侯(韓)譊以都尉撃匈奴得王、侯、十二年、元鼎五年坐酎金免。
按道
元封元年五月己卯、愍侯(韓)説以横海將軍擊東越、侯、十九年、為衛太子所殺。
延和三年侯興嗣、四年、坐祝詛上要斬。
後元元年、侯曾以興弟紹封龍頟、三十一年薨。
(『漢書』巻十六、高恵高后文功臣表)

実は『漢書』高恵高后文功臣表では「龍頟侯」と「按道侯」が別人であるかのように書かれているのだが、確かに、大逆罪で取り潰しになった「按道侯」家ではなく、あくまでも爵位取り上げだけで済んでいた別の家である「龍頟侯」家の復興なのだ、と考えた方が辻褄が合うような気もしないでもない。




結論としてはよくわからん。