漢の景帝の子たち

漢の景帝の男子で名が残っているのは武帝を入れて14人。



河間献王徳は「修學好古」などと言われる、一応真面目な人物だったらしい。



臨江哀王閼は早死に。



臨江閔王榮は最初の皇太子。罪があって自殺したが、元皇太子を排除しようとしたものという疑いが強い。



魯恭王余は孔丘先生の旧宅から書を見つけた事で有名だが、「好治宮室苑囿狗馬」などと言われ、割と遊び好きな性格だった模様。



江都易王非は武ばった事が好きだったようだが、「驕奢甚」とも言われている。



膠西于王端はかなり奇矯な人物であったらしく、罪があって領土を削られた事にキレて、今度はわざと税金を取らずに国を治める事を放棄した、などという話が伝わる。



趙敬粛王彭祖は「巧佞」などと言われ、漢王朝から送り込まれる官僚の非を見つけて脅したり漢にチクったりしていたという。厄介なヤツである。



中山靖王勝はあの有名な子沢山である。「奢淫」などとも言われる。



長沙定王発は母が寵愛されていなかったせいか、まだマトモだったらしい。ただ、皇帝の前でわざと小さく舞い、「我が国は小国なので手を大きく広げられないのです」と言い、領土を増やしてもらった、という話が残っている。



廣川恵王越は早くに死んだ。ただ、子と孫が結構やらかしているので、教育はあまりよろしくなかったのかもしれない。



膠東康王寄は淮南王安の謀反の際に同調しようとしたという事なので、まあちょっとアレなタイプ。



清河哀王乗は早くに死んだ。



常山憲王舜は「驕淫、數犯禁」などと言われており、末っ子なのでろくでも無かったけど許されていた、という。



残りは言うまでもなく武帝




こうして見ると、この14人中8人は正直ろくでもない話が伝わる連中だ。




色々なロクでなしや外道の見本市みたいになっているように思える時がある前漢の諸侯王たちの中でも、景帝の子供たちは出色の出来栄えだ。どこにお出ししても恥ずかしくない。