内史騰について

十六年九月、發卒受地韓南陽假守騰。
初令男子書年。
魏獻地於秦。
秦置麗邑。
十七年、内史騰攻韓、得韓王安、盡納其地、以其地為郡、命曰潁川。
(『史記』巻六、秦始皇本紀)

十六
置麗邑。發卒受韓南陽
十七
内史騰擊得韓王安、盡取其地、置潁川郡。華陽太后薨。
(『史記』巻十五、六国年表)

秦の始皇帝の16年、17年頃の事。




読み方にも諸説あるらしいが、16年に秦が韓から土地の割譲を受け、翌17年に「内史騰」が韓を討って全土を奪ったという。




この「内史騰」が16年の「南陽仮守騰」と同一人物なのかどうかもはっきりしないが、ともかく「内史騰」の「内史」が官名だと考えると不思議に思う事が一つある。



それは、秦王の国における首都圏(関中)の長官といった立場であるはずの「内史」が潁川にまで出張ってきている事になる、という事だ。隣に出張した、程度の話では済まない筈だ。






その疑問を解消する説は以前にも提唱した。「内史騰というのは「官(内史)+名(騰)」ではなく、「氏(内史)+名(騰)」なのではないか」というヤツだ。



「内史」氏の存在は記録にあるし、『史記』秦始皇本紀などで将の事を「氏+名」で表すのはよくある事である。






まあ、そこまで強く言うつもりはない。ただ、こういう可能性もあると思ってもらえるといい。