仲長統『昌言』理乱篇を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/08/13/000100)の続き。





又政之為理者、取一切而已、非能斟酌賢愚之分、以開盛衰之數也。日不如古、彌以遠甚。豈不然邪?漢興以來、相與同為編戸齊民、而以財力相君長者、世無數焉。而清絜之士、徒自苦於茨棘之閒、無所益損於風俗也。豪人之室、連棟數百、膏田満野、奴婢千羣、徒附萬計。船車賈販、周於四方。廢居積貯、満於都城。琦賂寶貨、巨室不能容。馬牛羊豕、山谷不能受。妖童美妾、填乎綺室。倡謳伎樂、列乎深堂。賓客待見而不敢去、車騎交錯而不敢進。三牲之肉、臭而不可食。清醇之酎、敗而不可飲。睇盼則人從其目之所視、喜怒則人隨其心之所慮。此皆公侯之廣樂、君長之厚實也。苟能運智詐者、則得之焉。苟能得之者、人不以為罪焉。源發而横流、路開而四通矣。求士之舍榮樂而居窮苦、弃放逸而赴束縛、夫誰肯為之者邪!
夫亂世長而化世短。亂世則小人貴寵、君子困賤。當君子困賤之時、跼高天、蹐厚地、猶恐有鎮厭之禍也。逮至清世、則復入於矯枉過正之檢。老者耄矣、不能及寬饒之俗。少者方壯、將復困於衰亂之時。是使姦人擅無窮之福利、而善士挂不赦之罪辜。苟目能辯色、耳能辯聲、口能辯味、體能辯寒温者、將皆以脩絜為諱惡、設智巧以避之焉、況肯有安而樂之者邪?斯下世人主一切之愆也。
(『後漢書』列伝第三十九、仲長統伝)


政治を行う者は、全部一斉に取り扱うので、賢者・愚者の能力を斟酌して取り立てたりといったことはできない。今は古き良き時代から遠く離れ、その頃のようには出来ないのだ。どうしてできないのだろうか?



漢王朝以降、みな同じ身分の民とされ、その中で財力によって豪族となる者が無数にいた。それに対して高潔の士は苦しみばかりで世を正す事はできなかった。



豪族は屋敷を何百も連ね、あたり一面の美田を独占し、奴婢や隷民が山ほどいる。船や馬車に乗った買い付け人が四方を巡り、蓄えられた物資や財貨は入りきらず、家畜は山いっぱい。姫妾やお抱え芸人も数多く、客人は待たされても帰る事はなく、渋滞を起こすほどである。良い肉や酒も退蔵されて腐り、周囲の人々はみな見つめた方に目を向け、喜びや怒りを示せば周囲の人々はみなその心に従おうとする。



これらは公・侯といった国君や豪族の勢力である。それは狡知を廻らせれば得られることがある。そしてそれをいったん手に入れれば、もはや罪とはされないのである。こういった道が開けているのに、敢えて苦しみや束縛しかない道を選ぼうとする者がいるだろうか?





そもそも乱世は長く、治まった時代は短い。乱世にはろくでもない人物が重用されて君子は困窮する。困窮した君子は天に対し身体を曲げ、地に対して足を重ね、鎮圧される災いを恐れるのである。清らかな世が来ると、今度は矯正が度を過ぎるようになる。老いた者は耄碌し、治まった時代まで持たない。若者が壮年になるとまた乱世で困窮する事になる。




こうしてロクデナシどもが利益を独占し、善人たちが許されない大罪に陥ってしまう。



いやしくも人として目が色を見分け、耳は声を聞き分け、口は味を感じ、体は暑さ寒さを感じるというなら、清廉を旨として悪を忌み嫌うべきところなのに、実際には悪知恵で避けようとする。人々はどうして正道を守ろうとするだろうか。



これらは君主の罪なのである。






結構自信のない部分もあるが、こんなところだろうか。



人々が善の道を捨てて悪に走るメカニズムを説いているようだ。悪事に手を染めて富貴になるのと正道を守って苦労ばかりするのと、人はどちらを取るのか。そんな世にした君主のせいだ、という事か?