駱統の家庭環境

駱統字公緒、會稽烏傷人也。
父俊、官至陳相、為袁術所害。
統母改適、為華歆小妻、統時八歳、遂與親客歸會稽。其母送之、拝辭上車、面而不顧、其母泣涕於後。御者曰「夫人猶在也。」統曰「不欲增母思、故不顧耳。」事適母甚謹。
時饑荒、郷里及遠方客多有困乏、統為之飲食衰少。其姊仁愛有行、寡歸無子、見統甚哀之、數問其故。統曰「士大夫糟糠不足、我何心獨飽!」姊曰「誠如是、何不告我、而自苦若此?」乃自以私粟與統、又以告母、母亦賢之、遂使分施、由是顯名。
(『三国志』巻五十七、駱統伝)


呉の駱統は父が死ぬと、華歆の側室となった実母と共に華歆の元にいたらしい。



その後、8歳の時に嫡母のいる会稽(本貫)に送られる事となった、という。




という事は、駱統の実母というのは駱統の父駱俊の側室だったという事だ。そして、駱俊の嫡妻は会稽で健在だったので、駱俊が陳国で殺された時、おそらく既に避難済みで、側室である駱統だけが駱俊の近くにいたのではなかろうか。




また、駱統が会稽に送られた8歳の時というのは、思うに西暦で言うと200年じゃなかろうか(没年齢と死亡した年から)。これは実母の夫華歆が孫氏の元を離れた時期と重なりそうなので、華歆が中原へ行くに当たって身辺整理をしたのか、華歆が中央に取り込まれたので駱氏を頼るしかなくなったのか、どちらかなのだろう。


実母とは離れ離れになったところを見ると前者だろうか。実母も中原へ行ったのではなかろうか。



もう長江を隔てた遠くへ行ってしまって会えないとわかっていたからこそ、「母の辛い思いを増やしたくないから振り返らない」などという気丈な言葉が出たのかもしれない。




実父は既に死に、実母は新たな夫についていき、自分は義理の母の元に送られた。こんな感じだったとすると、駱統の家庭環境も中々複雑である。