若き県令

原渉字巨先。祖父武帝時以豪桀自陽翟徙茂陵。渉父哀帝時為南陽太守。
天下殷富、大郡二千石死官、賦斂送葬皆千萬以上、妻子通共受之、以定産業。時又少行三年喪者。
及渉父死、讓還南陽賻送、行喪冢廬三年、繇是顯名京師。禮畢、扶風謁請為議曹、衣冠慕之輻輳。為大司徒史丹*1舉能治劇、為谷口令、時年二十餘。谷口聞其名、不言而治。
(『漢書』巻九十二、游俠伝、原渉)


前漢末期の原渉という人物は、太守であった父が死んだ時にひと財産築くことが出来る香典の類を受け取らずに三年の喪をやり通したということで評判になり、20歳あまりの時に県令に抜擢されたという。





「贅沢三昧の外戚の中で親孝行で謙虚で勤勉」という評判を武器に30代にして三公に登り詰めた王莽っぽさもあるし、皇帝のお気に入りということで20代にして三公になった董賢のようでもある。



この時代は年功序列にこだわらない、それを破るような人事が多かった時代なのかもしれない。

*1:宣帝以来の外戚史丹は大司徒になっていない上に時代が合わない。師丹の事だろうが大司徒にはなっていない。大司馬か大司空の事だと思われる。