生而首上圩頂、故因名曰丘云。
【注】
索隱、圩音烏。頂音鼎。圩頂言頂上窳也、故孔子頂如反宇。反宇者、若屋宇之反、中低而四傍高也。
(『史記』巻四十七、孔子世家)
孔子こと孔丘先生は、前回の記事にあったように身長210センチ以上で、しかも「四隅が高く中央がへこんでいる」という頭頂部の持ち主だった(そこから「丘」という名になったとか)という。
なかなか珍しい身体的特徴があったという事になる。
將適陳、過匡、顔刻為僕、以其策指之曰「昔吾入此、由彼缺也。」匡人聞之、以為魯之陽虎。陽虎嘗暴匡人、匡人於是遂止孔子。孔子状類陽虎、拘焉五日、顔淵後、子曰「吾以汝為死矣。」顔淵曰「子在,回何敢死!」
(『史記』巻四十七、孔子世家)
そんな孔丘先生の弟子の一人有若、そして孔丘先生のライバル的な存在でもあったらしい魯の陽虎、この二人は孔丘先生と似ている、という話が残っている。
特に陽虎は人違いで捕らえられたりしたほどであった。
という事は、有若や陽虎も2メートルを超える身長で特徴的な頭頂部だったのだろうか。
特に陽虎はそういった特徴が似ていたからこそ先生が取り違えられたのではないか。
身長2メートルで頭にヘコミがあるおっさんが何人もいるわけないだろ、ということだ。
あの時代の魯方面は、なかなか独特な外見の人が3人も集っていたらしい。