北地傅氏の変遷

傅介子、北地人也、以從軍為官。
(『漢書』巻七十、傅介子伝)

義渠公孫賀・傅介子。
(『漢書』巻六十九、趙充国辛慶忌伝賛)

前漢の暗殺者傅介子は北地郡義渠道の人であるらしい。



傅燮字南容、北地靈州人也。
(『後漢書』列伝第四十八、傅燮伝)

傅嘏字蘭石、北地泥陽人。傅介子之後也。
(『三国志』巻二十一、傅嘏伝)

だが、その子孫という傅嘏は「北地泥陽」の人で、一方で少なくとも同族の筈の傅燮は「北地霊州」の人となっている。



傅弘之字仲度、北地泥陽人。
傅氏舊屬靈州、漢末郡境為虜所侵、失土寄寓馮翊、置泥陽・富平二縣、靈州廢不立、故傅氏悉屬泥陽。
(『宋書』巻四十八、傅弘之伝)

これについては、元々は霊州県が傅氏の故地だったが、北地郡が侵略を受けて避難した時に泥陽県に移管になったのだ、という。




元々の傅介子の出身である義渠道は『続漢書』郡国志では北地郡に載っていないので、おそらく義渠が廃止になって霊州に移管し、更に泥陽に移管した、という事なのだろう。