皇后殺し

吳主(孫)權潘夫人、會稽句章人也。
父為吏、坐法死。夫人與姊倶輸織室、權見而異之、召充後宮。得幸有娠、夢有以龍頭授己者、己以蔽膝受之、遂生亮。
赤烏十三年、亮立為太子、請出嫁夫人之姊、權聽許之。明年、立夫人為皇后。
性險妒容媚、自始至卒、譖害袁夫人等甚衆。
權不豫、夫人使問中書令孫弘呂后專制故事。侍疾疲勞、因以羸疾、諸宮人伺其昬臥、共縊殺之、託言中惡。後事泄、坐死者六七人。權尋薨、合葬蔣陵。
孫亮即位、以夫人姊壻譚紹為騎都尉、授兵。亮廢、紹與家屬送本郡廬陵。
(『三国志』巻五十、呉主権潘夫人伝)

呉の孫権の潘夫人は孫権の太子孫亮の実母であり、子が太子になった後に皇后に立てられた。



皇太子の母が皇后になるというのはよくある話である。




そして孫権が死ぬ間際、潘皇后は「呂后が政治を一人で壟断した時の故事」を調べさせたという。つまり呂后は将来の自分の姿というわけだ。



周囲の者(女官)はそんな潘皇后の寝込みを襲って殺してしまった。






これ、現役皇后にして今に皇太后になるはずの女性を暗殺したという事だよね・・・。とんでもない大事件ではないか。



なぜこんな事が起こったのに6、7人の処刑で済んでいるのだろうか?



バックに触れられないレベルの大物がいたのでは・・・?(勘ぐり)