『三国志』明帝紀を読んでみよう:その7

その6(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/02/12/000100)の続き。





六年春二月、詔曰「古之帝王、封建諸侯、所以藩屏王室也。詩不云乎『懷徳維寧、宗子維城』。秦・漢繼周、或彊或弱、倶失厥中。大魏創業、諸王開國、隨時之宜、未有定制、非所以永為後法也。其改封諸侯王、皆以郡為國。」
三月癸酉、行東巡、所過存問高年鰥寡孤獨、賜穀帛。
乙亥、月犯軒轅大星。
夏四月壬寅、行幸許昌宮。
甲子、初進新果于廟。
五月、皇子殷薨、追封諡安平哀王。
秋七月、以衛尉董昭為司徒。
九月、行幸摩陂、治許昌宮、起景福・承光殿。
冬十月、殄夷將軍田豫帥衆討呉將周賀於成山、殺賀。
十一月丙寅、太白晝見。有星孛于翼、近太微上將星。
庚寅、陳思王植薨。
十二月、行還許昌宮。
(『三国志』巻三、明帝紀

太和6年。



諸侯王の国を郡単位にせよ、とのお達し。それまでは一つの県に封建されていた。曹植曹彰でもそうである。後漢でも王の国は基本的に数県分だったはずなので、魏はこれまで以上に藩屏たる王が貧弱だった事になる。


この時の命令によって王たちの領土は増え、改めて封建される事になっている。



太和四年、行司徒事、六年、拝真。
(『三国志』巻十四、董昭伝)

三公のひとつ司徒は前任者王朗が太和2年に死んだ後、ここまで正式な任命者がいなかったらしい。太和4年からは董昭が代行として業務を取り扱ったようだが、正式に任命されたのは2年後だった。


董昭くらいしか適任者がいないけれど、董昭を正式に任命するのを憚るような理由が何かあったのだろうか。よくわからない。




曹植死亡。41歳だそうだ。魏武と卞氏の間の男子は全員が40代前半までに死んだ事になる。この時代なら短命という程ではないだろうが、何となくちょっと体が弱い体質が遺伝したのではないか、などと思えてしまう。