『三国志』武帝紀を読んでみよう:その43

その42(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/17/000100)の続き。





二十一年春二月、公還鄴。
三月壬寅、公親耕籍田。
夏五月、天子進公爵為魏王。
代郡烏丸行單于普富盧與其侯王來朝。
天子命王女為公主、食湯沐邑。
秋七月、匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝、待以客禮、遂留魏、使右賢王去卑監其國。
八月、以大理鍾繇為相國。
冬十月、治兵、遂征孫權。
十一月、至譙。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、魏公から魏王へ。


太后稱制、議欲立諸呂為王。問右丞相王陵。王陵曰「高帝刑白馬盟曰『非劉氏而王、天下共撃之』。今王呂氏、非約也。」太后不説。
(『史記』巻九、呂太后本紀)


漢においては高祖劉邦が「劉氏にあらずして王となった者がいたら、みなでその者を討つように」との盟約を結んだ、とされている。



実際、基本的に王は宗室の劉氏のみであった。



ここに来てその大原則が崩されたわけだ。どんなに領土が大きくても魏公は「公」であって「王」ではない、というのがこの制限の抜け道だったのだと思うが、それをも正面突破しようというのである。



言い換えると、これに反発しない者はもう漢王朝の権威を認めていないと同義という事だろう。皇帝の命といっても、それを言ってしまうと王莽だって董卓だって形式的には皇帝の命で高い地位に登ったりしているのだから同じである。



娘を皇后にし、魏公から魏王となり、いよいよ魏武がやろうとしている事が見えてきた。そんな感じである。




なお、大理畜生が相国になったというのは、どちらも魏王国の事である。



「大理」というのは司法担当大臣とでも言うべき廷尉のかつての名で、どうやら漢王朝の大臣と区別するために魏国では大理と呼んでいたらしい。


畜生は広大な魏王国全体の宰相になった、という事である。魏王はあまり領内にいないし、よく考えたら割と凄い権力を握った事になるのではなかろうか。