『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その15

その14(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/18/000100)の続き。





秋七月壬子、太尉朱儁免。戊午、太常楊彪為太尉、録尚書事。
三輔大旱、自四月至于是月。帝避正殿請雨、遣使者洗囚徒、原輕繫。
是時穀一斛五十萬、豆麥一斛二十萬、人相食啖、白骨委積。帝使侍御史侯汶出太倉米豆、為飢人作縻粥、經日而死者無降。帝疑賦卹有虚、乃親於御坐前量試作糜、乃知非實,使侍中劉艾出讓有司。於是尚書令以下皆詣省閣謝、奏收侯汶考實。詔曰「未忍致汶于理、可杖五十。」自是之後、多得全濟。
八月、馮翊羌叛、寇屬縣、郭汜・樊稠撃破之。
九月、桑復生椹、人得以食。
司徒淳于嘉罷。
冬十月、長安市門自壞。
以衛尉趙温為司徒、録尚書事。
十二月、分安定・扶風為新平郡。
是歳、揚州刺史劉繇與袁術孫策戰于曲阿、繇軍敗績、孫策遂據江東。
太傅馬日磾薨于壽春。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

興平元年(12月まで)。


帝使侍御史侯汶出太倉米豆、為饑民作糜、經日頒布而死者愈多。帝於是始疑有司盜其糧廩、乃親於御前自加臨給、饑者人皆泣曰「今始得耳!」
(『晋書』巻二十六、食貨志)


献帝穀物価格高騰による餓死を防ぐために政府の備蓄を開放させる。


餓死が減らない事を疑い、自らの前で粥を作らせて欺瞞をあぶり出したという。報告されていた数量と合致しなかったか。『晋書』食貨志では役人たちが穀物を横領していた事になっている。


献帝の聡明さと慈悲深さを表すエピソードと言えるだろうし、献帝はその位は政治に関わっていた事を示しているとも言えるだろう。




あの孫策が揚州刺史劉繇を破って江東に割拠。


なおこの年は徐州では曹操が「所過多所殘戮」といった所業を行い、兗州呂布を旗頭に曹操に背き、その後陶謙が死んであの劉備がそれに代わる、という激動の年だった。