司馬懿と詩

『晋書』宣帝紀にある司馬懿の詩の出来がアレだ、という話がある。



実のところ私自身ではその詩の出来不出来などはよくわかってないが、事実そうだとして、それはただ司馬懿に詩才が無い、だけで済ませる問題なのだろうか?(実際詩才は無いのだとしても)

景初二年、帥牛金・胡遵等歩騎四萬、發自京都。車駕送出西明門、詔弟孚・子師送過温、賜以穀帛牛酒、敕郡守典農以下皆往會焉。見父老故舊、讌飲累日。帝歎息、悵然有感、為歌曰「天地開闢、日月重光。遭遇際會、畢力遐方。將掃羣穢、還過故郷。肅清萬里、總齊八荒。告成歸老、待罪舞陽。」
(『晋書』巻一、宣帝紀

これは時期としては公孫淵討伐を前に故郷の地である河内温県での酒宴での事らしい。



酒の席で、おそらくは即興で作ったというものかもしれない。



また、少々穿った見方になるが、軍を率いる総大将である司馬懿が軍内での支持を得ようと、敢えて「詩を解さない武骨な将」をアピールしようとした、などと考える余地もあるかもしれない*1



七歩どころか一歩で立派な詩をひねり出す曹植みたいなのもいるが、大半の貴人ですらそうはいかなかっただろうし、将兵は猶更だろう。



詩作が苦手である事を取り繕う事もしない司馬懿に、同じように苦手な貴人・官僚や将兵たちは親近感を覚えたのではなかろうか。


皇帝一族が詩作の大家という詩作王朝であればこそ、そういうアピールにも一定の効果があった、かもしれない。




またずっと以前記事にしたことがあるが、魏王朝では詩を作るのをもたもたしていた事で罷免されそうになった高官がいるくらいなので、司馬懿も詩作に時間をかける事を許されなかった、という事情もあったかもしれない(もっとも、リンク先は皇帝の面前での事と思われるので、司馬懿のケースとは同一視できないだろうが)。

*1:司馬懿が詩作が出来ないと芝居を打った、とまでは言わないが。