楚人か否か

及孝文帝元年、初鎮撫天下、使告諸侯四夷從代來即位意、喻盛徳焉。乃為(尉)佗親冢在真定、置守邑、歳時奉祀。召其從昆弟、尊官厚賜寵之。詔丞相陳平等舉可使南越者、平言好畤陸賈、先帝時習使南越。迺召賈以為太中大夫、往使。
(『史記』巻一百一十三、南越列伝)

漢の文帝の時、「好畤の人である陸賈」が南越への使者となった。



陸賈者、楚人也。以客從高祖定天下、名為有口辯士、居左右、常使諸侯。
(『史記』巻九十七、酈生陸賈列伝)

だが、『史記』や『漢書』の本人の列伝ではこの陸賈は「楚の人」とされている。関中にある好畤の人ではない。



この人物の記事はどちらかが間違っているのか。それとも別人なのか。




孝惠帝時、呂太后用事、欲王諸呂、畏大臣有口者、陸生自度不能爭之、迺病免家居。
以好畤田地善、可以家焉。
(『史記』巻九十七、酈生陸賈列伝)

これはどういう事かというと、おそらく、陸賈は後に好畤に定住するようになり、それ以降は「好畤の人」として認識されるようになったという事だと思われる。




これは首都圏への移住を求められた高官や豪族にも言える事だが、「〇〇の人」はこういった事情で後から変わる事もある、という事なのだろう。