『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その48

その47(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/04/000100)の続き。





楚將季布亦已亡匿、投濮陽周氏、漢購之急。周氏乃髡鉗布與家僮數十人、至魯朱家而賣之。朱家心知是季布、因買之、置田舍、乃見滕公曰、季布何罪。臣各為其主用耳。上始得天下、以私怒求一人、何示不廣也。且季布之賢、不南走越、即北走胡。夫忌壯士以資敵國、此伍子胥所以鞭荊王之墓也。夏侯嬰為言之。上乃赦布、拜為郎中、後為中郎將。布立然諾之信。時人為之語曰、得黄金百鎰、不如季布一諾。
朱家者為任俠、所藏活者甚衆、豪士以百數、不伐其功。諸所嘗施、唯恐見之。賑人先於貧賤、衣不兼綵、食不重味、專以赴人之急。及布尊貴、朱家遂不復見之。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)

楚の将であった季布について。彼は劉邦を散々な目に遭わせた時の将だったらしく、恨んでいた劉邦は彼に賞金を懸け、匿った者も死罪と布告してまで彼を探したという。



だがその一方で季布は著名人であったようで協力者も多く、周氏と朱家によって助けられて劉邦に仕える事となった。




最終的には文帝の時代に河東郡守となって御史大夫就任も検討されたというから、この当時は案外若かったのかもしれない。



この話は、劉邦が恨みや怒りから人を殺そうとする事はあっても、理論立てて説得されれば理解して聞き入れる能力と度量があるという事がよくわかるエピソードだと言えよう。





ちなみに、この季布の母の弟とされる丁公なる人物は、同じく項羽の将であった時に劉邦項羽を両天秤に掛けて劉邦に恩を売った事があったのだが、彼が劉邦の軍門に降ると、劉邦は早速この丁公を不忠者として成敗したという話が残っている。



自分の恩人であっても人として将として間違っていれば罰し、恨む相手であっても忠実な人物であれば助けて用いるというのは、なかなか興味深い判断基準である。