『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その47

その46(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/03/000100)の続き。





是時田橫與賓客五百人亡在海中。上遣使赦橫罪曰、橫來、大者王、小者侯。不來將加誅。橫曰、臣烹酈食其、今聞其弟酈商為將。臣畏懼不敢奉詔。帝乃詔商曰、田橫至、敢有動者族誅。橫詣洛陽、至尸郷亭三十里、謂其從者曰、橫與漢王並南面稱孤、今漢王為天子、而橫為亡虜。其辱已甚矣。且橫嘗烹人之兄、今與其弟並肩事主、彼雖畏詔、橫獨不媿于心哉。且陛下不過欲一見我面貌耳。今斬我頭馳三十里、容貌未及變。乃沐浴自刎、令客奉其首。上曰、嗟乎、起自布衣、兄弟三人更立為王、豈不賢哉。為之流涕、而拜其二客為都尉、以王禮葬之。二客穿其廝旁皆自刎而從之。上聞大驚、以橫客為皆賢、聞其餘五百人在海島中、使使召之、聞橫死、亦皆自殺。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)

斉の田横、自殺。



「海中」というのは半魚人だったという意味ではなく、海の向こうの島に逃げた、という事だろう。そういう場所も県などが置かれていないだけで人は住んでいたのではないかと思う。



彼は途中までは劉邦の元へ行こうとしていたかのようだったが直前になって自殺しているが、これは「この距離なら容貌が分からなくなるほど首級が腐らずに済むから」という事らしい。また、一度は恭順しないと全員討ち死にするだけだ、せめて付き従っている500人だけでも助かるように、との思いもあったのかもしれない。



何にしても、田横もその賓客も劉邦の軍門に降るのをよしとしなかったのは、おそらくは斉にとってみれば劉邦韓信)は一方では手を結ぼうと申し出ておいて油断を誘いながら裏から隙を付いて攻め込んだ、という事になるからであろう。そんな相手に降伏などしたくない、という事なのではなかろうか。