『史記』項羽本紀を読んでみよう:その12

その11(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180827/1535296045)の続き。





項羽已殺卿子冠軍、威震楚國、名聞諸侯。乃遣當陽君・蒲將軍將卒二萬渡河、救鉅鹿。戰少利、陳餘復請兵。項羽乃悉引兵渡河、皆沈船、破釜甑、燒廬舍、持三日糧、以示士卒必死、無一還心。於是至則圍王離、與秦軍遇、九戰、絶其甬道、大破之、殺蘇角、虜王離。渉輭不降楚、自燒殺。當是時、楚兵冠諸侯。諸侯軍救鉅鹿下者十餘壁、莫敢縱兵。及楚撃秦、諸將皆從壁上觀。楚戰士無不一以當十、楚兵呼聲動天、諸侯軍無不人人惴恐。
於是已破秦軍、項羽召見諸侯將、入轅門、無不膝行而前、莫敢仰視。項羽由是始為諸侯上將軍、諸侯皆屬焉。
(『史記』巻七、項羽本紀)


項羽、乾坤一擲の大勝負に勝つ。




項羽としては勝つ自信があっての事かもしれないが、戻らない覚悟(というか船や食料も破棄したので、退却しようにももう戻れない)で秦に当たって秦を破った。




これによって趙は救われ、項羽の名はすべての諸侯に轟いた。楚の将軍を超えて複数の諸侯を従える存在になった、という事のようだ。






裏を返せば、クーデターのよって軍の実権を握った項羽は、何としてでもここで赫々たる戦功を上げなければ後が無かった、という事でもあると思う。



長期戦を選んだ宋義をそれを理由に殺している以上、同じような事を出来るわけがない。



後の事を考えておらず危険極まりない、文字通り「背水の陣」を敷いてでも勝たなければいけない理由が、項羽にはあったのである。



項羽にしてみれば勝算はあったのだろうし実際に成し遂げてはいるわけではあるが、万一何か少しでも上手く行かなければ、項羽の名は陳勝呉広を殺した連中と同じような扱いしか受けずに終わっていたのだろう。