『史記』陳渉世家を読んでみよう:その11

その10(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180731/1532963425)の続き。





陳王初立時、陵人秦嘉・銍人董緤・符離人朱雞石・取慮人鄭布・徐人丁疾等皆特起、將兵圍東海守慶於郯。陳王聞、乃使武平君畔為將軍、監郯下軍。秦嘉不受命、嘉自立為大司馬、惡屬武平君。告軍吏曰「武平君年少、不知兵事、勿聽!」因矯以王命殺武平君畔。
章邯已破伍徐、撃陳、柱國房君死。章邯又進兵撃陳西張賀軍。陳王出監戰、軍破、張賀死。
臘月、陳王之汝陰、還至下城父、其御莊賈殺以降秦。
陳勝葬碭、謚曰隠王。
(『史記』巻四十八、陳渉世家)

陳勝の指揮下に入らなかった秦嘉らは、少し後に景駒という人物を楚王に立て、一時期は劉邦と合力したが、項梁によって滅ぼされている。





陳勝、章邯に敗れ、部下に殺される。




おそらく自分の馬車を操る御者に殺されたという事だろう。





なお、陳勝が死んだのは秦二世皇帝2年12月。同じ頃、劉邦は雍歯の裏切りに遭っている。




陳勝劉邦は案外近くにいて、直接の接点はあまり無かったが間接的には劉邦陳勝の影響を色々受けていたと言う事も出来るだろう。