楚と趙

武臣到邯鄲、自立為趙王、陳餘為大將軍、張耳・召騷為左右丞相。
陳王怒、捕繫武臣等家室、欲誅之。柱國曰「秦未亡而誅趙王將相家屬、此生一秦也。不如因而立之。」
(『史記』巻四十八、陳渉世家)

かの陳勝は武臣・陳余・張耳らを趙の地へ派遣して自分の楚の勢力圏にしようとしたようだが、武臣らは勝手に独立して趙王や将・相を名乗った。




この勝手に独立した陳余・張耳たちこそ章邯と戦った趙の人間たちである。




そして、宋義の頃の楚には陳勝の頃の楚の人間も残っている。例えば呂臣などのように。





そういった陳勝時代からの者などは、普通に考えてこの時の趙(陳余・張耳)にはいい感情を抱いていなかった事だろう。




だからこそ、宋義も「趙と秦を戦わせて漁夫の利を得よう」というぐう畜な策を実行しようとしたのではなかろうか。




彼ら楚からすれば、この時の趙は信用できる相手ではなく、むしろ、この機にいっそ潰してしまいたいとすら思っていたのではないだろうか(無論、楚の全員がというわけではない。そういう声もある程度あったのではないか、という事だ)。