項羽の関中戦略について

かの項羽は、秦王を殺した後に天下を諸将に分配し、劉邦を漢王とし、秦からの降将章邯らを旧秦の中枢部である関中の王(三秦王)として配した。




しかし、秦から見れば裏切り者であり、しかも項羽による秦兵の大量穴埋めもあって秦人の心を得られなかった章邯らは劉邦に敗れ、劉邦が関中全土の王となった。




ここを見ると、章邯らを関中に配置したのは誤りであったように思える。





だが、よくよく考えてみると、秦兵穴埋めの主犯であった項羽やその腹心(英布ら)が関中の王になっても、章邯よりも更に秦人に憎まれる事になるのがオチであろう。



おそらく、だから項羽は関中の王にはならなかった(なれなかった)のだ。





かといって、征服時のふるまいから秦人の心を掴んでいた劉邦や、秦の生き残った王族などを関中の王に就ける事は項羽たちからすれば言語道断である。関中に項羽の反対勢力が産まれる事になる。




そうなると、関中をある程度は統治でき、それでいてあまり人心を得ていないからこそ項羽に歯向かえるほどの力は持てない、そんな人物を王に据えるのが次善の策、という事になる。


そういう観点では、秦人であり、それでいて秦人に嫌われている章邯らは適任であったのだろう。





そんな項羽の誤算は、劉邦が想像以上に強い軍団であった事であろう。