烈祖様の皇太子選び

魏氏春秋曰、時太子芳年八歳、秦王九歳、在于御側。帝執宣王手、目太子曰「死乃復可忍、朕忍死待君、君其與爽輔此。」宣王曰「陛下不見先帝屬臣以陛下乎?」
(『三国志』巻三、明帝紀注引『魏氏春秋』)


魏の明帝曹叡こと烈祖様は、いよいよ臨終という際になって皇太子を立てた。




その時、烈祖様は皇太子とした芳と秦王としていた詢、少なくとも二人の子を自分の子としていたのだが、よく見ると秦王詢の方が1歳とはいえ年上であったらしい。





何故、年下の芳の方が皇太子になったのだろうか?



同じ条件なら年長を皇太子にしそうなものだが、健康状態とか能力とかの面で芳の方が上と判断されたのだろうか?


それとも、何か別の理由でもあったのだろうか?




ちょっと興味深い。