『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その38

その37(https://t-s.hatenablog.com/entry/2018/12/23/000100)の続き。





四年冬十月、韓信將伐齊、聞既和欲還。蒯通説信曰、將軍受詔擊齊、未有詔止。何以得無行乎。且酈生一儒士、仗軾下齊七十餘城、將軍以數十萬衆、乃下趙五十餘城。勞苦將士數年、反不如一豎儒之功乎。信遂襲齊。齊王以酈生為賣己、乃烹之。齊王走高密。
項羽東伐外黄、外黄數日乃降。羽令男子十五已上詣城東、欲悉坑之。外黄令舍人兒年十三、説羽曰、彭越彊劫外黄、外黄恐、故且降以待大王。大王又欲坑之、百姓豈有所歸心哉。從此以東、梁地十餘城皆懼、莫敢下矣。羽赦之。
羽初之山東、屬大司馬曹咎・長史忻曰、漢即挑戰、慎勿與戰、勿令得東而已。我十五日必定梁地。而漢果挑戰、楚軍不出。使人辱之數日、咎怒、渡兵汜水上。士卒半渡、漢撃破之、盡得楚國寶貨。曹咎・長史忻皆自殺。王遂進兵取成皋。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第三)


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韓信、「斉攻めの命令は出ているが停戦の命令は出ていないから」という理由で漢の味方になったはずの斉を不意打ち。まあ、その事自体は間違って無い気もするが、「酈食其は斉70城を落として貴方はやっと趙50城」という蒯通の言葉を否定しなかったら台無しである。自分の功名心や酈食其への嫉妬が行動の根本にあると表明したようなものではないか。



項羽、少年に皆殺しの問題点を指摘される。これまでは真っ向から指摘してくれる人がいなかったんだろうか。




項羽が梁の方へ行っている間の成皋は曹咎らが守っていた。曹咎はおそらくは項羽重臣、寵臣だったのだろう。



だが、「自分が戻るまで守りを固めてまともに戦うな」という項羽の命令を守れず、劉邦の挑発に乗ってしまった曹咎たち。河を半ば渡ったところを攻撃という教科書通りの攻めを喰らって敗れた。



劉邦が河南を取り返したという事である。




韓信の斉攻めで項羽は一旦はハサミ討ちの形を免れた事になるが、韓信が斉を制圧したら事態はもっと悪くなる。


自分の領地である梁方面の反乱(彭越)を討伐している間に劉邦韓信も勢力を伸ばしていくという、じわじわとではあるが確実に追い詰められつつあるというのが今の項羽の状況である。