『漢書』文帝紀を読んでみよう:その16

その15(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171019/1508339809)の続き。




二年夏、行幸雍棫陽宮。
六月、代王參薨。
匈奴和親。詔曰「朕既不明、不能遠徳、使方外之國或不寧息。夫四荒之外不安其生、封圻之内勤勞不處、二者之咎、皆自於朕之徳薄而不能達遠也。間者累年匈奴並暴邊境、多殺吏民、邊臣兵吏又不能諭其内志、以重吾不徳。夫久結難連兵、中外之國將何以自寧?今朕夙興夜寐、勤勞天下、憂苦萬民、為之惻怛不安、未嘗一日忘於心、故遣使者冠蓋相望、結徹於道、以諭朕志於單于。今單于反古之道、計社稷之安、便萬民之利、新與朕倶棄細過、偕之大道、結兄弟之義、以全天下元元之民。和親以定、始于今年。」
三年春二月、行幸代。
四年夏四月丙寅晦、日有蝕之。
五月、赦天下。免官奴婢為庶人。
行幸雍。
五年春正月、行幸隴西。
三月、行幸雍。
秋七月、行幸代。
(『漢書』巻四、文帝紀

文帝後2年から後5年までについて。



文帝、匈奴と和親する。国力自体は匈奴と戦えるだけのものがあったかもしれないが、この当時は呉や斉が漢王朝と微妙な関係にあったので、両面に敵を作らないようにする必要があったのだろう。


特に裕福な上に漢王朝に恨みを抱いていた呉をどうにかするまでは匈奴とは全面戦争を避けたかったのだと思われる。




後二年、上曰「朕既不明、不能遠徳、是以使方外之國或不寧息。夫四荒之外不安其生、封畿之内勤勞不處、二者之咎、皆自於朕之徳薄而不能遠達也。輭者累年匈奴並暴邊境、多殺吏民、邊臣兵吏又不能諭吾内志、以重吾不徳也。夫久結難連兵、中外之國將何以自寧?今朕夙興夜寐、勤勞天下、憂苦萬民、為之怛綃不安、未嘗一日忘於心、故遣使者冠蓋相望、結軼於道、以諭朕意於單于。今單于反古之道、計社稷之安、便萬民之利、親與朕倶弃細過、偕之大道、結兄弟之義、以全天下元元之民。和親已定、始于今年。」
(『史記』巻十、孝文本紀)

史記』本紀では文帝が何度も長安を離れていた事について記されない。




ちなみに文帝が何度か足を運んでいる「雍」は秦の(統一以前の)時代から色々な祭祀を行う場所となっている。文帝が行幸しているのも祭祀のためと見ていいだろう。