四者連続

太后、趙之清河觀津人也。呂太后時、竇姫以良家子入宮侍太后太后出宮人以賜諸王、各五人、竇姫與在行中。竇姫家在清河、欲如趙近家、請其主遣宦者吏「必置我籍趙之伍中。」宦者忘之、誤置其籍代伍中。籍奏、詔可、當行。竇姫涕泣、怨其宦者、不欲往、相彊,乃肯行。
至代、代王獨幸竇姫、生女嫖、後生両男。而代王王后生四男。先代王未入立為帝而王后卒。及代王立為帝、而王后所生四男更病死。孝文帝立數月、公卿請立太子、而竇姫長男最長、立為太子。立竇姫為皇后、女嫖為長公主。其明年、立少子武為代王、已而又徙梁、是為梁孝王。
(『史記』巻四十九、外戚世家)

文帝の皇太子となった後の景帝を産んだのは代王時代の側室竇姫(後の皇后)であったが、その当時の代王(文帝)には「王后」すなわち正妻が別にいた。



しかも、男子を4人産んでいたという。




だが、その正妻は代王が皇帝になるより前に死に、その正妻が産んだ4人の男子は代王が皇帝になると次々に病死し、側室の子である後の景帝が皇太子になったのであるという。




だが、代王が皇帝になってから皇太子が立てられるまでの間は実は4か月かそこらしかない。



まだ年端もゆかぬ少年や幼児であった事を考えれば(この時、文帝自身まだ20代前半である)、病死がそこまで不自然とも言えないが、流石に四者連続はちょっと怪しく感じるところだ。






そして、既に死んでいた正妻というのは、代王(文帝)の兄弟たちの例からすると呂氏または呂氏の親戚などであった可能性がとても高いだろう。



そうだとすれば、代王(文帝)の正妻の子というのは、呂氏の血統の子ということになる。




呂氏とのつながりから将来の復讐を恐れて皇帝でさえ始末した陳平・周勃らが、いつかは呂氏の血統が皇帝になるかもしれないなどという事を許すはずがない。





代王に対して皇帝になる交換条件として密かに言われていたのか、それとも陳平たちが代王にも言わず秘密裏に「処理」したのかは断定できないが、どちらにしろ、この四連続「病死」の裏に呂氏誅滅と新皇帝擁立を巡る思惑があったのではないか、と考えてみたくなる(以前も言ったことではあるが)。