『漢書』高后紀を読んでみよう:その4

その3(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170912/1505142079)の続き。




五年春、南粵王尉佗自稱南武帝
秋八月、淮陽王彊薨。
九月、發河東・上黨騎屯北地。
六年春、星晝見。
夏四月、赦天下。
秩長陵令二千石。
六月、城長陵。
匈奴寇狄道、攻阿陽。
行五分錢。
(『漢書』巻三、高后紀)


呂后5年、6年、南越が自ら「帝」を称したであるとか、匈奴が攻めてきたであるとか、「五分銭(つまりものすごく小さい銭)」を使うことにしたであるとか、それなりには事件が起こったり制度が変わったりしている。




五年八月、淮陽王薨、以弟壺關侯武為淮陽王。
六年十月、太后曰呂王嘉居處驕恣、廢之、以肅王台弟呂産為呂王。
夏、赦天下。
封齊悼惠王子興居為東牟侯。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

史記』では、これでもかと言わんばかりに諸侯や列侯の就任、異動の記事が連続する。



この後で出てくる重要人物ばかりではあるので、事件中心、人物中心に考えるなら確かに重要な情報ではあるのだが。



なお、ここで死んでいる淮陽王は恵帝の後宮の女性が産んだ子のひとり、劉彊。それによって空いた国を同じ境遇の子の劉武に継がせたという事になる。