『漢書』高后紀を読んでみよう:その2

その1(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170910/1504970252)の続き。




二年春、詔曰「高皇帝匡飭天下、諸有功者皆受分地為列侯、萬民大安、莫不受休徳。朕思念至於久遠而功名不著、亡以尊大誼、施後世。今欲差次列侯功以定朝位、臧于高廟、世世勿絶、嗣子各襲其功位。其與列侯議定奏之。」丞相臣平言「謹與絳侯臣勃・曲周侯臣商・潁陰侯臣嬰・安國侯臣陵等議、列侯幸得賜餐錢奉邑、陛下加惠、以功次定朝位、臣請臧高廟。」奏可。
春正月乙卯、地震、羌道・武都道山崩。
夏六月丙戌晦、日有蝕之。
秋七月、恆山王不疑薨。
行八銖錢。
三年夏、江水・漢水溢、流民四千餘家。秋、星晝見。
(『漢書』巻三、高后紀)

呂后時代の二年目、呂后は功臣たちに命じて列侯たちの朝廷における座席の序列を定めた。ただの席次とも言えるが、単なる席次ではなく功績の多寡に基づく地位の順位を公式に定めたものであるとも言えるだろう。


こういうのはほとんどの者が高くしたいだろうから、裏では順番を争うような裏工作もあったことだろう。そしてこういうことによっても呂后や他の呂氏たちは権威と利得を重ねて行ったのかもしれない。




「八銖銭」というのは、漢は貨幣を秦の「半両銭」から小さな「榆莢銭」(「半両」と書いていたらしい)に変更したが今度は小さすぎるということで「八銖の重さの半両銭」に変えたということらしい。



なお文帝がまた「四銖の重さの半両銭」に変更し、最終的に有名な武帝の「五銖銭」に落ち着くという経緯らしい。




二年、常山王薨、以其弟襄城侯山為常山王、更名義。
十一月、呂王台薨、謚為肅王、太子嘉代立為王。
三年、無事。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

史記』ではやはり貨幣の事やら洪水の事やらが書かれていない。


特に洪水と天文の異常現象があったと『漢書』に記されている呂后3年が「特に事件無し」というのはなかなかスルースキルが高い。





正直、『史記』呂太后本紀の編集方針は割と尖っていたように思えて来た。