『漢書』恵帝紀を読んでみよう:その5

その4(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20170906/1504623913)の続き。




七年冬十月、發車騎・材官詣滎陽、太尉灌嬰將。
春正月辛丑朔、日有蝕之。
夏五月丁卯、日有蝕之、既。
秋八月戊寅、帝崩于未央宮。九月辛丑、葬安陵。
贊曰、孝惠内修親親、外禮宰相、優寵齊悼・趙隠、恩敬篤矣。聞叔孫通之諫則懼然、納曹相國之對而心説、可謂𥶡仁之主。遭呂太后虧損至徳、悲夫!
(『漢書』巻二、恵帝紀

恵帝7年、恵帝が世を去る。



いかにもと言った感じで日食があったことが記されるほか、詳しく語られぬままに漢の軍事部門最高責任者潅嬰が軍を率いて関中と関東の間の要地滎陽に赴いた事も記録されている。




もしかすると、恵帝の病状が思わしくないことから諸侯への警戒度を高めたということかもしれない。




それと、『漢書』の「賛」は恵帝を悪く言っていない。まあ自分からは悪いことをしていないので当然と言えば当然なのだが。




七年秋八月戊寅、孝惠帝崩。
發喪、太后哭、泣不下。
留侯子張辟彊為侍中、年十五、謂丞相曰「太后獨有孝惠、今崩、哭不悲、君知其解乎?」丞相曰「何解?」辟彊曰「帝毋壮子、太后畏君等。君今請拜呂台・呂産・呂祿為將、將兵居南北軍、及諸呂皆入宮、居中用事、如此則太后心安、君等幸得脱禍矣。」丞相迺如辟彊計。
太后説、其哭迺哀。呂氏權由此起。迺大赦天下。
九月辛丑、葬。
(『史記』巻九、呂太后本紀)

一方、『史記』では話がいきなり恵帝死後に飛ぶ。


そこで張良の子の進言で呂氏が強大な権限を得ることになり、その代り大臣たちが呂后に消されずに済んだという顛末を記す。




それにしても我が子の早い死にも涙を流さない呂后というのもなかなか凄い話である。


天下を治める、治めようとする人間からは自然と人間性が損なわれてしまうものかもしれない。





というわけで、「恵帝篇」は以上。