『漢書』王莽伝を読んでみよう:下その28

その27の続き。


莽又多遣大夫謁者分教民煮草木為酪、酪不可食、重為煩費。
莽下書曰「惟民困乏、雖溥開諸倉以賑贍之、猶恐未足。其且開天下山澤之防、諸能采取山澤之物而順月令者、其恣聽之、勿令出税。至地皇三十年如故、是王光上戊之六年也。如令豪吏猾民辜而攉之、小民弗蒙、非予意也。易不云乎?『損上益下、民説無疆。』書云『言之不從、是謂不艾。』咨虖羣公、可不憂哉!」
是時下江兵盛、新巿朱鮪・平林陳牧等皆復聚衆、攻撃郷聚。
莽遣司命大將軍孔仁部豫州、納言大將軍嚴尤・秩宗大將軍陳茂撃荊州、各從吏士百餘人、乗船從渭入河、至華陰乃出乗傳、到部募士。
尤謂茂曰「遣將不與兵符、必先請而後動、是猶紲韓盧而責之獲也。」
(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)

王莽は大夫・謁者を各地に数多く派遣し、民に草木を煮て飲料を作る方法を教えさせたが、その飲料は飲めたものではなく、費用や手間がかかるばかりであった。



王莽は命令を下した。「民が困窮しており、食料庫を開けて食べ物を支給しているとはいえ、足りないのではないかと恐れている。そこでしばらく天下の山や沢の禁令を解き、山や沢で取れる季節の物を民が自由に採取することを許し、税を取らないようにする。地皇三十年になったら元に戻す。これは新たな暦の「王光上戊」の六年に当たる。もし豪族の官吏や悪賢い民が独り占めして一般大衆がその利益を蒙ることができないのは、予の意図するところではない。『易経』に「上を減らし下を増やせば、民は限度が無いくらいに喜ぶ」と言うではないか。『書経』に「言ったことが従われない。これを治まらないと言うのである」と言うではないか。ああ、群公よ、憂えずにいられようか!」




この時、下江の兵の勢いが盛んで、新巿の朱鮪や平林の陳牧がまた集まり、郷や集落を攻撃していた。
王莽は司命大将軍孔仁に予州を分担させ、納言大将軍荘尤(厳尤)・秩宗大将軍陳茂に荊州を攻撃させた。それぞれ百人ほどの官吏を従えさせ、船に乗って渭水から黄河に入り、華陰で早馬に乗り、分担の地区に入って兵を集めさせた。
荘尤は陳茂に「将を派遣しながら兵を自由に使う権限は与えず、先に申請させて許可してから行動させるというのでは、名犬に縄を付けておいて猟をするように求めるようなものだ」と言った。



草や木で作った王莽汁は飲食に耐えなかったという。
どんな代物か良くわからないが、これを朝廷の顕官たちに大真面目に広めさせたあたり、とりあえず王莽政権の切羽詰まった感じだけは伝わる。





朱鮪は後に更始帝の大司馬となり、光武帝兄弟を疑ったり、光武帝の派遣した将軍たちから洛陽を守って最終的に降伏したりした人物。