『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その35

その34の続き。


天鳳元年正月、赦天下。
莽曰「予以二月建寅之節行巡狩之禮、太官齎糒乾肉、内者行張坐臥、所過毋得有所給。予之東巡、必躬載耒、毎縣則耕、以勸東作。予之南巡、必躬載耨、毎縣則薅、以勸南偽。予之西巡、必躬載銍、毎縣則穫、以勸西成。予之北巡、必躬載拂、毎縣則粟、以勸蓋藏。畢北巡狩之禮、即于土中居雒陽之都焉。敢有趨讙犯法、輒以軍法從事。」
羣公奏言「皇帝至孝、往年文母聖體不豫、躬親供養、衣冠稀解。因遭棄羣臣悲哀、顔色未復、飲食損少。今一歳四巡、道路萬里、春秋尊、非糒乾肉之所能堪。且無巡狩、須闋大服、以安聖體。臣等盡力養牧兆民、奉稱明詔。」
莽曰「羣公・羣牧・羣司・諸侯・庶尹願盡力相帥養牧兆民、欲以稱予、繇此敬聽、其勗之哉!毋食言焉。更以天鳳七年、歳在大梁、倉龍庚辰、行巡狩之禮。厥明年、歳在實沈、倉龍辛巳、即土之中雒陽之都。」乃遣太傅平晏・大司空王邑之雒陽、營相宅兆、圖起宗廟・社稷・郊兆云。
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

  • 天鳳元年(紀元14年)

天鳳元年正月、天下に恩赦を命じた。



王莽は言った。「予は二月に巡狩の礼を行う。太官は保存穀物や干し肉を用意し、内者は天幕や座席などを用意し、通過する場所にそれらを出させないようにせよ。予が東方を巡る際は、必ずや自ら鋤を持ち、通過する県ごとに耕作し、東方に農作業を勧めるであろう。予が南方を巡る際は、必ずや自ら鍬を持ち、通過する県ごとに雑草を取り、南方に教化を勧めるであろう。予が西方を巡る際は、必ずや自ら鎌を持ち、通過する県ごとに収穫し、西方に農業の成果を勧めるであろう。予が北方を巡る際は、必ずや自らからざおを持ち、通過する県ごとに脱穀を行い、貯蔵を勧めるであろう。北方への巡狩が終わったら、中央たる洛陽に都を定める。もし巡狩を遮る者があれば軍法によって処罰する」



公たちが言った。「皇帝は孝行の極みであり、これまで文母太后のお体が優れなかった時には自ら看病し、めったに衣服を脱がないほどでした。文母太后がお隠れになると哀しみのあまり顔色はいまだ元に戻っておらず、飲食も服喪のため通常より減らしております。今、一年に四方すべてで一万里にも及ぶ行程を移動すれば、年齢も高くありますので、保存穀物や干し肉ではお体に障ることでしょう。しばらく巡狩はやめ、喪が明けてお体の調子が戻るのをお待ちになるべきです。私どもは詔を奉じて天下の民を導くことに努めます」



王莽は言った。「公、地方長官、中央諸官、諸侯、官吏は力を尽くして民を導くことを願い、予の思いに釣り合わんとしている。みなよく努めよ。しかしながら言葉を覆すことはできぬ。天鳳七年、大梁の年、蒼竜庚辰の年に巡狩を行うものとする。その明年、実沈の年、蒼竜辛巳の年に中央たる洛陽に都を定める」
そこで、太傅平晏・大司空王邑を洛陽に派遣して多くの住宅を用意させ、宗廟、社稷、祭祀場の建設を計画させた。



王莽、全国を巡る「巡狩」を臣下の反対にもかかわらず挙行すると発表。ただしまた7年後にする、と延期。


ここだけ見ると本気を疑いたくなるような話だが、「巡狩」は始皇帝が行ったことで有名なように、新たに天下を治めることとなった天子にとっては義務、あるいは天子の地位を名乗るための資格のようなものと認識されていたようにも思える。


となると、「出来ない」とか「やりたくない」とか「おんもこわい」とか言ってられないし、王莽自身も本気でいたと考えてもいいのかもしれない。





洛陽遷都のための準備は新王朝の間にどこまで進んだのか、ちょっと気になる。