仕官するなら

更名光祿勳曰司中、・・・(中略)・・・執金吾曰奮武・・・
(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)

王莽は真の皇帝の座に就くと漢の官名をほとんど改称、改組し、たとえば執金吾は「奮武」と改称した。



初、光武適新野、聞后美、心悦之。後至長安、見執金吾車騎甚盛、因歎曰「仕宦當作執金吾、娶妻當得陰麗華。」
(『後漢書』紀第十上、皇后紀上、光烈陰皇后)

ということは、光武帝劉秀が若い時分に「仕官するなら執金吾になりてえなあ」と感嘆したという話の時、その官の正式名称は「奮武」だったということなんだろう。




それが「執金吾」と書かれている理由としては、「史書が書き換えた」「正式名称では奮武だが通称として旧名を使った」「創作者の取材不足」あたりを考え付くが、自分としてはどれなのか判断つかないので、読んだ人がそれぞれの解釈で考えればいいことかもな、って思う。






後漢初期ファンの猛者たちなら大抵知っているレベルの話なのだろうとは思うが、自分は猛者ではないため最近知ったばかりなので備忘録として書いてみた。