『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その39

その38の続き。


於是莽大説。公卿曰「皆宜如嘉言。」
莽白太后下詔曰「惟嘉父子兄弟、雖與崇有屬、不敢阿私、或見萌牙、相率告之、及其禍成、同共讎之、應合古制、忠孝著焉。其以杜衍戸千封嘉為帥禮侯、嘉子七人皆賜爵關内侯。」後又封竦為淑徳侯。
長安為之語曰「欲求封、過張伯松、力戰鬬、不如巧為奏。」
莽又封南陽吏民有功者百餘人、汙池劉崇室宅。後謀反者、皆汙池云。
羣臣復白「劉崇等謀逆者、以莽權輕也。宜尊重以填海内。」五月甲辰、太后詔莽朝見太后稱「假皇帝」。
冬十月丙辰朔、日有食之。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


劉嘉(張竦)の上奏に王莽は大いに喜び、三公・九卿は「みな劉嘉の言うとおりにするべきでしょう」と言った。



王莽は元后に言上して詔を出させた。「思うに劉嘉の親子兄弟は、劉崇の親族とはいえ、私的な関係を絶ち、乱の萌芽を見るとそれをいち早く報告し、反乱という禍が起こると、共に劉崇を仇とした。これは古の制度に合致し、忠義と孝行の現われである。劉嘉を杜衍県の千戸に封じて帥礼侯とし、劉嘉の子供七人はみな関内侯の爵位を賜う」また、その後張竦も淑徳侯に封じた。



そのため、長安では「封建されたかったら張伯松(張竦)の元を訪れよ。戦闘に力を出しても巧みな上奏文にかなわない」と言われた。



また王莽は南陽の官吏・民で功績があった者百人以上を封建し、劉崇の邸宅を汚水池とした。その後、反乱を企んだ者の家はみな同じように汚水池としたという。



群臣たちはまた、劉崇らが反逆を謀ったのは王莽の権力が軽かったからであるので、もっと尊重して天下を鎮撫せよ、と言った。五月甲辰、元后は詔を出し、王莽が元后に謁見する際に「仮皇帝」と名乗らせることとした。



十月丙辰、日食があった。



「反乱者の親族でも率先して親族を切り捨てて政府側に付けばおとがめなし!ことによると恩賞も!」というスタンスを明確にした王莽政権。


考えてみると王莽自身がそういうスタンスだった(呂寛事件の時)ので、首尾一貫しているとは言えるかもしれない。





そして、「反乱が起こらないようにもっと強い権力を」という焼け太り状態。これは末期的な感じがしますね・・・。