『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その21

その20の続き。


臣聞功亡原者賞不限、徳亡首者襃不檢。是故成王之於周公也、度百里之限、越九錫之檢、開七百里之宇、兼商・奄之民、賜以附庸殷民六族、大路大旂、封父之繁弱、夏后之璜、祝宗卜史、備物典策、官司彝器、白牡之牲、郊望之禮。王曰「叔父、建爾元子。」子父倶延拜而受之。可謂不檢亡原者矣。非特止此、六子皆封。詩曰「亡言不讎、亡徳不報。」報當如之、不如非報也。
近觀行事、高祖之約非劉氏不王、然而番君得王長沙、下詔稱忠、定著於令、明有大信不拘於制也。春秋晉悼公用魏絳之策、諸夏服從。鄭伯獻樂、悼公於是以半賜之。絳深辭讓、晉侯曰「微子、寡人不能濟河。夫賞、國之典、不可廢也。子其受之。」魏絳於是有金石之樂、春秋善之、取其臣竭忠以辭功、君知臣以遂賞也。
今陛下既知公有周公功徳、不行成王之襃賞、遂聽公之固辭、不顧春秋之明義、則民臣何稱、萬世何述?誠非所以為國也。臣愚以為宜恢公國、令如周公、建立公子、令如伯禽。所賜之品、亦皆如之。諸子之封、皆如六子。即羣下較然輸忠、黎庶昭然感徳。臣誠輸忠、民誠感徳、則於王事何有?唯陛下深惟祖宗之重、敬畏上天之戒、儀形虞・周之盛、敕盡伯禽之賜、無遴周公之報、令天法有設、後世有祖、天下幸甚!
太后以視羣公、羣公方議其事、會呂𥶡事起。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

私が聞いたところでは、功績がとてつもなく大きい者には恩賞に限度は無く、徳が最上の者は褒賞に限りは無いと言います。ゆえに周の成王は周公旦に対して百里四方を超える領土を賜い、九錫以上の恩典を受け、七百里の地を開き、商と奄二国の民を領有し、殷の民の六つの氏族や天子の車や旗、大きな弓や玉、太祝などの官、祭祀の道具や犠牲に使う白い動物、上帝への祭祀の権利などを与えました。
王は「叔父よ、後継ぎ息子を建てる」と言い、親子が共に拝受しました。これこそ際限ない恩賞というものです。さらにそれにとどまらず、六人の子供が封建されました。『詩経』に「報いられない善言は無く、報いられない人徳は無い」と言います。報いるというのはその徳にふさわしいものを言うのであって、徳の高さに釣り合わなければ報いるとは言わないのです。



最近の事例を見ると、高祖(劉邦)は劉氏でなければ王としないと約束しましたが、番君呉芮を長沙王とし、特に詔を下し、忠義であるために王にすると律令に記させました。特別な信頼があれば制度に拘らないものなのです。『春秋』において、晋の悼公は魏絳の策によって中華の諸国を服従させました。鄭伯が楽団を献上すると、悼公は半分を魏絳に下賜しました。魏絳は辞退しましたが、悼公は「貴方がいなければ、私は黄河を渡ることもできなかった。褒賞というのは国の重要な制度であり、ゆるがせにしてはいけない。君は受け取るべきである」と言いました。魏絳の楽団については、『春秋』が臣下が忠義を尽くして褒賞を辞退し、君主が臣下のことを良く知っていたために褒賞を成し遂げたということを褒め称えています。
今、陛下は安漢公に周公旦の功績と徳があるとわかっておりながら成王のような褒賞を行わず、安漢公の辞退を聞き入れて『春秋』で述べる正しいありかたを顧みずにおります。これでは臣下は何を称え、後世は何を述べれば良いのでしょうか?国を治めるためにはよろしくありません。
私が思うに、安漢公の領国を周公旦の国のように広げ、周公旦の子伯禽のように安漢公の子を封建し、品々も周公旦と同じようにするべきです。安漢公の子の封建は、周公旦の六子のようにするべきです。
そうすれば臣下は明らかに忠義を尽くすようになり、民は明らかに徳に感じ入るでしょう。臣下は忠義を尽くし、民は徳に感じ入るようになれば、君主の政治は何の問題がありましょうや。陛下には深く祖宗の重みを感じ、天の戒めを恐れ、舜や周王朝の最盛期になぞらえ、伯禽のような恩賞を徹底し、周公に与えたような恩典を気前よく与え、天の決まりに従い、後世のための最初の事例とすれば、天下にとってとても幸せなことでございます。




元后はその上奏を大臣たちに見せ、大臣たちは王莽の恩賞について議論し始めたが、その時に呂寛の事件が起こった。



この陳崇(張竦)の「安漢公王莽にもっと恩賞を与えるべし」という主張はここまで。



元后がこれを大臣たちに見せたということは、つまり「それに沿った形でどうするか考えろ」ということであろう。



その中で盛んに周公旦と王莽を比較し、匹敵するものとしていることは今後の展開においても重要なポイントになりそうな気がする。多分。





そして起こる「呂寛事件」。それがいったいどういうものなのかは次回以降で。