『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その19

その18の続き。


公卿咸歎公徳、同盛公勳、皆以周公為比、宜賜號安漢公、益封二縣、公皆不受。傳曰申包胥不受存楚之報、晏平仲不受輔齊之封、孔子曰「能以禮讓為國乎何有」、公之謂也。
將為皇帝定立妃后、有司上名、公女為首、公深辭讓、迫不得已然後受詔。父子之親天性自然、欲其榮貴甚於為身、皇后之尊祈於天子、當時之會千載希有、然而公惟國家之統、揖大福之恩、事事謙退、動而固辭。書曰「舜讓于徳不嗣」、公之謂矣。
自公受策、以至于今、斖斖翼翼、日新其徳、筯修雅素以命下國、𢓭儉隆約以矯世俗、割財損家以帥羣下、彌躬執平以逮公卿、教子尊學以隆國化。僮奴衣布、馬不秣穀、食飲之用、不過凡庶。詩云「温温恭人、如集于木」、孔子曰「食無求飽、居無求安」、公之謂矣。
克身自約、糴食逮給、物物卬市、日闋亡儲。又上書歸孝哀皇帝所益封邑、入錢獻田、殫盡舊業、為衆倡始。於是小大郷和、承風從化、外則王公列侯、内則帷幄侍御、翕然同時、各竭所有、或入金錢、或獻田畝、以振貧窮、收贍不足者。昔令尹子文朝不及夕、魯公儀子不茹園葵、公之謂矣。
開門延士、下及白屋、婁省朝政、綜管衆治、親見牧守以下、考迹雅素、審知白鄢。詩云「夙夜匪解、以事一人」、易曰「終日乾乾、夕綃若窅」、公之謂矣。
比三世為三公、再奉送大行、秉冢宰職、填安國家、四海輻湊、靡不得所。書曰「納于大麓、列風雷雨不迷」、公之謂矣。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

大臣たちはみな安漢公の徳や功績を称え、みな周公旦を比較対象とし、安漢公の称号を贈り、二県を加増すべきと思いましたが、公はどれも辞退しました。申包胥が楚を救った恩賞を受け取らず、晏嬰が斉の宰相となっても封建を受けず、孔子が「礼儀や謙譲の心で政治を行えば、何の問題があろうか?」と言っていたのは、安漢公のことを言うのでしょう。



皇帝のために皇后を立てようとした際、担当者が報告した名簿の筆頭には安漢公の娘が載っていましたが、公は辞退しようとし、受けるよう強く迫られてやむを得ず娘を皇后とすることを受け入れました。親子の情は天性のものであり、その栄達を願うのは本人以上であり、また皇后は皇帝に匹敵する尊い存在であり、千載一遇の機会であるのに、安漢公は朝廷の事のみを考えて娘を皇后にするという大きな恩を辞退しようとしました。『書経』に「舜は自分は不徳の身であると天子の地位を辞退した」と言っていたのは、安漢公のことを言うのでしょう。



安漢公が策書を受けてから今に至るまで、日々務めて徳を高め、平素から身を治めて天下に知らしめ、謙譲や倹約に努めて世間の風潮を正し、私財を割いて人々の模範となり、自ら公平な政治を行って大臣たちに影響を及ぼし、子に学問を尊ばせて人々を教化し、使用人には布の服を着せ、馬には穀物を与えず、飲食も一般人と同様でした。『詩経』に「木に寄り集まっているかのごとく柔和でうやうやしい」と言っていたのは、安漢公のことを言うのでしょう。



自制して倹約し、主食は必要な分のみ買い求め、必要な品は市場でその日に必要な分のみ購入しています。また哀帝が加増した領土を献上して人々を率先しました。それによって人々が王や列侯、皇帝の側近までもがみな金銭や農地を献上し、貧民を救済しました。昔、令尹子文が朝から夕方まで持たない
ほど生活が苦しかったといい、魯の公儀休が自分の菜園の野菜を食べなかったというのは、安漢公のことを言うのでしょう。



門を開けて立派な人物を招き入れ、それは庶民も対象としました。しばしば朝政を執り行い、各部門の政治を統括し、自ら州牧や太守を面接してその平素の姿を確認し、能否を判断しました。『詩経』に「朝から晩まで怠けることなく政治に励み、天子に仕える」といい、『易経』に「終日怠らず、夕方には病気になったかのように恐れる」というのは、安漢公のことを言うのでしょう。



成帝・哀帝・平帝の三代に渡って三公となり、成帝・哀帝の二度崩御した皇帝のご遺体を見送り、政治の最高責任者となって王朝の重鎮となり、全国からあらゆるものが集まり、あるべき場所に収まらない者はありませんでした。『書経』に「堯は舜に政治を治めさせると、風雨や雷に出遭っても迷うことが無い」というのは、安漢公のことを言うのでしょう。



内容的にはそれまでの王莽の所業を列挙しては褒めちぎるスタイルだが、ところどころ面白い内容も見える。



なぜ市場で食料や生活必需品を購入していることが称賛されているかというと、自分の荘園内で大抵自給自足できてしまう豪族は、市場でそういった品物を製造販売して生計を維持する手工業者と商人の生活を奪う、と考えるからであるらしい。



王莽のような外戚の列侯も、おそらくは自給自足できる生産力を持っているのが普通だったのだろうから、王莽はそういった普通の外戚とは違うのだ、兼併家ではないのだ、ということなのだろうか。