『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その15

その14の続き。



莽既尊重、欲以女配帝為皇后、以固其權、奏言「皇帝即位三年、長秋宮未建、液廷媵未充。乃者國家之難、本從亡嗣、配取不正。請考論五經、定取禮、正十二女之義、以廣繼嗣。博采二王後及周公孔子世列侯在長安者適子女。」
事下有司、上衆女名、王氏女多在選中者。莽恐其與己女爭、即上言「身亡徳、子材下、不宜與衆女並采。」
太后以為至誠、乃下詔曰「王氏女、朕之外家、其勿采。」
庶民・諸生・郎吏以上守闕上書者日千餘人、公卿大夫或詣廷中、或伏省戸下、咸言「明詔聖徳巍巍如彼、安漢公盛勳堂堂若此、今當立后、獨奈何廢公女?天下安所歸命!願得公女為天下母。」
莽遣長史以下分部曉止公卿及諸生、而上書者愈甚。太后不得已、聽公卿采莽女。
莽復自白「宜博選衆女。」公卿爭曰「不宜采諸女以貳正統。」
莽白「願見女。」太后遣長樂少府・宗正・尚書令納采見女、還奏言「公女漸漬徳化、有窈窕之容、宜承天序、奉祭祀。」
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽は高貴で重要な地位に就き、自分の娘を皇后にして更に権力を固めようと思った。そこで「皇帝は即位から三年経ちますが、皇后が定まっておらず、後宮の女性たちもまた充実していません。かつて、王朝の危難は後継ぎ不在から起こりました。五経を論じて礼制を定め、天子が娶る十二人の女性を揃えて後継ぎを多く残すようにいたしましょう。その際は広く殷・周の二王朝の末裔や周公・孔子の子孫、列侯で長安にいる者の嫡出の子女より選びましょう」と上奏した。


そのことは担当役人に下されて候補者名簿が献上された。そこには元后・王莽の親族である王氏の女性が多く入っていた。王莽は自分の娘が親族たちと競争になることを恐れて「私には徳が無く、娘も大した才能の無い者であるので、私の娘は他の女性たちと共に候補になるべきではありません」と申し出た。



元后はそれを誠実なことと思って「朕の親族である王氏の娘は候補より選んではならない」と命じた。



そうしたところ、民、学生、郎官以上の官僚たちがこぞって日に千人も上奏し、朝臣たちも朝廷内や門のそばに控えて上奏した。彼らはみな「陛下の徳の高さはこのようであり、安漢公(王莽)の勲功の大きさもあのようであります。今、皇后をお決めになる時にそのような安漢公の娘を除外することなど、どうしてできましょう?そうなったら天下の者たちは身の置き所がありません。願わくは安漢公の娘が皇后に選ばれますように」と言った。



王莽は長史以下の属官を派遣してそのような上奏を止めさせたが、上奏はますます多くなった。元后はやむを得ず王莽の娘を候補とすることを認めた。



王莽は「多くの女性から選ぶべきです」と申し出たが、大臣たちは「他の女性を選ぶことで正統に背くことはできません」と反論した。



王莽はそこで「我が娘を面接してお決めになるよう」と言い、元后は長楽少府・宗正・尚書令を派遣して王莽の娘を面接し、彼らは「安漢公の娘は高い徳の影響を受けてしとやかで美しく、天の秩序を受け継ぎ、皇室の祭祀を受け持つにふさわしい女性です」と報告した。




王莽は自分の娘を平帝の皇后にしたいが、ゴリ押しすれば人望を失うし、かといって何もしなければ自分の親戚が最大のライバルになってしまう。元后にしてみれば、王莽の娘も他の王氏の娘も同じ親族であり、王莽の娘を選ぶ必然性がないからだ。



そこで、敢えて辞退することで元后に王氏全体が皇后になれないようにしてしまった上で、王莽支持者たちの後押しで王莽の娘だけ特別扱いにしよう、ということらしい。




回りくどいが、「自分の娘が皇后になるなど思ってもいない謙虚さ」という名声と「自分の娘が皇后になる」という結果の両方を得るための策というところか。